泥棒 第3章〜第4章
『政治学』
矛盾にまで至るような両義的な論理で、解釈が分かれるテクスト。
3つのアポリア
p60(a)すべての市民には、そもそも命令することと服従することの両方が可能である。したがって、ある市民は他の市民よりも命令する能力が高い。(b)「最善の原則」だけが、支配者の選択を司るべきである。したがって、ある市民は他の市民よりも命令するのに適している。
ギリシアにおける市民権は代わる代わる持ち回りで役割を交代してという輪番的形態を取る。 一時的な執政官としての職務の間市民。
アリストテレスは命令と服従の循環性を述べた後に急に徳の話をし始める。なぜなら統治する能力の問題が解決されていないから。
共同体全体に寄与する善人の徳/それぞれが才能に比例して部分的に寄与する市民の徳 を分け、統治者は前者の思慮深き人間が理想的であることを示すが、循環性が不可逆であることも示してしまっている。
この議論は何度も繰り返され、堂々巡りになっている。
p60 (a)統治とはたんに権力の行使をするだけであり、その役割は行政的である、(b)ポリテイアとポリテウマ、国家主権と統治する政府は同義である、と。
ポリテイア(国制)とポリテウマ(統治する政府)は同じなのか? 区別したり同義としたりよくわからん。
国制は権力を分配する審級として理解された政府を含んでいる。
公共、公職、法定の機能を組織するものであるので、立憲機能を持つと理解できる。
統治する政府は、執行権と理解されているアルケーのことでもあった。
誰が統治する能力を持っているのかという話になる。
統治者と非統治者の差異の問題が出てくる。
すべての国民が等しく職務につくことができないことから、政府の立法と統治の行政に関わる意味が衝突してしまう。
結局は集団的な主権の権威は支配階級の出現に道を譲ることになる。 p60 (a)前者は最善の国制に紙幅が割かれた観念的かつ概念的な巻であり、(b)後者は国制を記述する実在論的な巻である。
後者のほうが巻数が多いことが民主主義の地位を不確かにしている。
最善の国制と民主主義が混同されているのか、それとも実際ある特定の類型の統治に、そして最も欠陥のある統治のうちの一つに過ぎないのか。 アルケー・パラダイムに内在するアポリア
アルケーの中心に不可避的にアナーキー的脅威が宿っている。
命令―服従の可逆性および循環性を維持することの不可能性に関わる。
オイコノミア(家庭内経済)とアルケー・ポリティケ―
家庭内の主人―奴隷の命令―服従は不可逆のヒエラルキーを持つ
市民―統治者の命令―服従関係は循環的である。
同時に個々のアルケーによって政治的従属の不可避な性質というテーゼも示す。(能力の不平等性を説明)
事実としてのヒエラルキーから、政治的ヒエラルキーへの移行を正統的に保障する道具となる。
p76 統治する者と統治される者のあいだの非対称性は、統治する能力についての暗黙裏の理論によって正当化される。統治可能であるとは、従うように自然に運命づけられていること、政治的精神の体現者であること、都市に奉仕する人材であることである。
p76 アルケーの異他規範性――政治的であると同時に家庭的でもある――は、その強固さと脆弱さ、つまり無秩序(アナーキー)を同時に左右する。
シュールマンの主著。
政治がアルケーの論理的かつ存在論的な練り上げによって左右されることによってアルケーが本質的に異他規範的であることが明らかにされるものであるなら、形而上学それ自体のアナーキーな次元を解明することが必要であり、この本の中核。
アルケーの体系的分析、ハイデガーによるアルケーの解体、アナーキーが持つ政治的問題という3つの交差。 p78 シュールマンが主張するところでは、形而上学は全体として「存在論的アナーキー」に基づいているが、形而上学はこの存在論的アナーキーを抑圧しており、最終的には存在論的アナーキーにおいて消尽してしまうという。
アナーキーは逆説的にも、「理論的」でなくなるその瞬間にこそ概念となる。
アナーキーとアナキズムを厳格に区別して政治的アナキズムを退けるが、ハイデガーが「アナーキー」という概念を使っていないのに、それはどこから調達してきたのか?「盗んだでしょ?」
アナキスト的思考が形而上学に固執していることの糾弾
ユートピア主義と理論的アナキズムの類似、そしてどちらも形而上学的であるということ。
存在論的アナキズムは単なるユートピアではないし、プルードンやバクーニンのような実践的「基準」を満たさない。
p82 しかし、シュールマンはアナキズムと批判的な関係を取り結びつつも、だからといってアナーキーを脱政治化することはない。それどころか、「政治を理解するある一つの方法は閉域によって不可能な状態に陥り、その結果別の方法が不可能になる(18)」とさえ論じている。空虚のなかで宙吊りになっている行動は、これまでになかった意味で政治的なものであり、現代という過渡期はまだ当の意味の粗描をしているにすぎないのである。
原理:アリストテレスの定義では、「それによって」「それを起点にして」事物をそのものたらしめるもの。 原理を省察する方法
由来を考えること。しかし、由来とはじまりが同一ではないことがある。先行性は直ちに優先性と優越性に変化する。アリストテレスにおいては、時間的な隔たりは階層的な秩序となる。
アリストテレスにおける目的論的政治
「同様に、活動のみならず行、動が存在するためには、行動することに意味と方向を与える最初のものが存在しなければならない。」
アルケーは「現象的にはみずからと異質な前提の集合」に由来している。
p85「アリストテレスにおけるアルケー概念は、どの程度現象に注目し、どの程度形而上学的に構築されたものなのだろうか」。
主権と統治する政府を結びつけるアルケー・パラダイムにおいては、目的に方向づけられることは必然的に由来し帰結することと呼応する。その意味で「目的論的政治」である。
p87 事物は、その目的=終焉に向かって方向づけられることでようやく存在しはじめる。事物はみずからの固有な存在に向かって動くことによって、その軌道から外れることはできない。かくして、事物はその成就に向かうことを余儀なくされ、みずからの成就に向かって落下する。目的論的政治は歴史を通じて途切れることなく君臨してきたとシュールマンは主張する。
アルケーからプリンキピアへ
アルケーが「原理(プリンキピア)」と訳されるとき、アルケーは自明な命題として自明化されてしまう。
原理が自明化されてしまうことで、逆に原理自体の原理がなくなり自らの領域からはみ出してしまう。
中世の神学における神の定義の難しさ。
p92 原理が[原理を与えられたもの]と近すぎたり、派生物とあまりに等価になりすぎたり、民主的すぎたりすると、同時に原理としての次元を放棄してしまう。
p94 アリストテレスによるアルケーの練り上げは、アルケー自体の起源がもつアナーキーな要素を、絶対的なはじまりおよび命令に変容させることによって隠匿する、つまりくすね取ると同時に偽るのである。
p94 哲学者[シュールマン]にとって、財産=特性とは何よりもまず自分自身のものであり、事物が、みずからの本来の整合性を剥ぎ取られることによって哲学的に同一性を付与される方法である。起源は「万物の第一の源泉」ではないばかりでなく、はじまりもせず、いかなる目的=終焉と連動することもなく、何に対しても命令しない。「アルケー―テロスという一対の概念は、起源という現象を汲み尽くすことはない」。それゆえ、存在論的な意味での特性は、物質的な意味での財産と同様に、どちらも源泉の隠匿に由来する。しかし、シュールマンは、私有財産の廃止よりも、特性の脱構築を優先することを主張している。――まさにそれこそが、彼のアナキズム批判に正当性を与えているのである。 アナーキーの時代段階
ハイデガーはアナーキーの過渡期的時代を特徴づける。
原理に抗する行為までなアナキズム的結論に到達しなかった。
シュールマンはハイデガーはアナーキーをハイデガーを読むための道具として作り始め、アナーキー自体へと導いていく。
アルケーとして、原理として起源の彼岸へと至る可能性がアナーキーによって開かれている。
政治/政治的なものの差異
政治がアルケー・パラダイムの外部に存在しないのに対して、「政治的なもの」は共同体のアナーキーな形態である。
アナーキーの政治的意味
p98 「政治的なもの」とは、「言葉、事物、行動が[…]相互関係的に現前する」現象学的な領域である。それゆえ、執政官も王子もいない統一が存在する。この「一者」こそが、アルケー的かつ中央集権的で包括的な統一に還元することができないものとしてのプロティノスが思考したものである。「ヘノロジー」(文字通り「一者」のロゴス)は、すでに目的論的政治の脱構成である。 シュールマン「形而上学の超克としてのヘノロジー」において、プロティノスの一者はアルケーとは違うと主張。
p99 「もし一者が存在者でなく、むしろ存在であるならば、それは出来事として理解されなければならない」。ハイデガーの性起(固有化する出来事)の概念を参照しつつ、シュールマンはこの原理についての出来事的な、すなわち基礎づけることなき読解を提唱する。出来事とは、それによって諸事物がともに持続し、水平的に適合することである。 一者とはそれによって事物が相互に整序されるものであり、所与の秩序を持たない秩序づけである。そのため原理は事物の外部にも内部にもなく、超越的でも内在的でもない。一者を至高の原因とみなす場合だけは不十分となる。 p100 存在論と政治は、統治する政府の支配下にはない統一という問題が答え――すなわち出来事――を見出すとき、ついにアナーキーの場で邂逅する。まさに出来事こそが、諸個人の協調の可能性と、中央集権的な権威なしに協力しあう、さまざまな要素の総体の可能性とを示すのである。
カントもフーコーもあんまりわからんくてギブ
フーコーは主体であることは常になにがしかの仕方で「自ら主体=臣民になる」ことであり、したがって「自らアナーキー的な主体=臣民になる」ことであることを示したらしい。
アナキストであると自認し、説明しようとすることは、アナキズムを無に帰すことになる。
複数形の現代的なアナーキーズムの形式はダブルバインドである。
ダブルバインドを原理とはしていない。
あんまりわからんくて後半流し読み